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第二次世界大戦時にインドネシアで行われた日本のプロバガンダが海外掲示板で話題に
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『アジアの光日本、アジアの母体日本、アジアの指導者日本』
インドネシアでの日本のプロパガンダ(1942)


『アジアの光日本、アジアの母体日本、アジアの指導者日本』
インドネシアでの日本のプロパガンダ(1942)

'"Japan the light of Asia,Japan the protector of Asia,Japan the leader of Asia" Japanese propaganda in Indonesia (1942)' |
第二次世界大戦
オランダは大航海時代以来、およそ300年にわたって「東インド」と名づけた島々を植民地支配してきた(オランダ海上帝国)。
しかし1941年夏のABCD包囲網以来日本とオランダは敵対し、同年12月8日に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まるとオランダ政府は12月10日に日本政府に対して宣戦布告(オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、当時ロンドンに亡命していた本国政府が追認したものとされる)、これに応じて日本軍(第16軍、ジャワ島上陸第1陣は約5万5000人)は1942年2月末から3月にかけて、スマトラ島とジャワ島に進攻した。
オランダ領東インド軍(蘭印軍、約4万人)は、3月10日に日本軍に全面降伏した。
その後日本軍は、オランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノやハッタなどの民族主義運動の活動家を解放し、その後スカルノやハッタと協力体制を取り、さらにインドネシア人を現地官吏に登用したほか、「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁するなど、インドネシア人を差別し弾圧したオランダ人とは異なった政策を取った。
さらに1943年10月には、日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本軍政下ではあったものの、インドネシア人はこれまでのオランダ統治下では決して得ることのできなかった権限を得ることとなったが、この頃までは石油資源の安定確保を目的として東インドを直轄の軍政地域とし、スカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者の独立の要請は認めなかった。(Wiki Zero)